あと1000日!阿久津も参加していた前・東京五輪

おはようございます。2020年東京五輪まであと1000日を切ってきました。

2020年東京五輪が決定したとき、誰もが指折り自分がその年に何歳になっていて、どういうポジションにいるのかを想像したと思います。

G&B社長の阿久津も、なんとかしてアクツ津波シェルターのような防災設備を普及させたいと考え始めた頃です。

もうずいぶん前のことのように感じますね。

さて、東京五輪は昭和39(1964)年にも開かれましたが、実は阿久津はこの東京五輪に出場しているのです

阿久津は当時、射撃に没頭しており、技術も相当なものでした。

ただ、選手としての出場はかなわず、審判員として参加しています。

そのときの思いを語った内容が産経新聞に掲載されていました。今回はその内容をご紹介します。

 前回の東京五輪のクレー射撃で審判員を務めたさいたま市浦和区領家の会社役員、阿久津一郎さんは8日、テレビで知った吉報に胸を熱くした。
10代のころから狩猟が趣味だった阿久津さんは、クレーを始めた。シカやキジを狙う実戦で鍛えた腕は競技でも生き、五輪の時は県の代表候補に一時浮上。選手には選ばれなかったが、審判として参加することになった。
競技は所沢市に新設した射撃場で4日間行われた。インドのマハラジャが一族を連れてきて驚いたことや、昭和天皇の案内役の1人になり身が引き締まったことなど、思い出は尽きない。
 射撃場に向かって「オリンピック道路」と呼ばれるまっすぐな道路(現在の埼大通り)が敷かれたのをはじめ、県内でも町並みは大きく変わっていった。テレビや冷蔵庫などの家電が普及し始めるなど、五輪後の高度経済成長に向け、国全体が希望に満ちていた時代でもあった。
「戦後の自分たちの歩みを世界が認めてくれたわけだから、国民はみな、もろ手を挙げて東京開催を喜んだ。この感覚は、今の人には分からないかもしれない」と阿久津さんは言う。
 クレーはやめたが、週に一度のゴルフは続けている健康体。一方、当時の仲間はほとんどが鬼籍に入っているという。「あの世で待っている仲間に報告するためにも、この7年を頑張って生きて、試合を見に行きたいね」と笑った。

アイキャッチの写真で阿久津が持っているものは、当時つけていた審判章です。

文中、太字で示した阿久津のセリフ、アラフォー以下の世代にはなかなか理解しにくい感覚かもしれませんね。

こういう世代が、これからの私たちの世代のために残そうとしている「アクツ津波シェルター」

なんとかして、形にして残したいと社員一同、邁進しております。

協力していただける企業様、自治体のみなさま、どうぞよろしくお願いいたします!